京の算数学問題#454
算数学コラム
みなさんこんにちは!京都市中京区で学習塾を運営しております。油谷拓哉(ゆたに たくや)です!
本能寺の変(ほんのうじのへん)は、1582年(天正10年)6月2日に明智光秀が京都にある本能寺にいた主君である織田信長を襲撃した事件として知られています。
ではなぜ本能寺の変は起こったのでしょうか?
実は本能寺の変には多くの謎があり現在も諸説語られている状況です。
実は朝廷が黒幕だった説
信長をコントロールしたい朝廷と信長の間には長い間緊張状態が続いていましたが、天正9年に左大臣就任を打診されます。
室町幕府を滅ぼした信長の躍進に、当時の朝廷が明智光秀らを動かし先手を打ったという説です。
明智光秀謀反説
おそらく1番有名なのは、明智光秀が謀反を起こした説です。
明智光秀は信長の有力な家臣であり、信長に対する信頼が厚かった一方で、自身の野望も抱いていたとされ、追い込まれた織田信長は自ら本能寺に火を放ち、自害したとされています。
また、謀反後の計画性のなさから、突発的に凶行に及んだという説もあります。
織田信長パワハラ説
織田信長からのハラスメントの数々を受けてきた明智光秀が恨みで織田信長に反旗を翻したという説です。
江戸時代から明治にかけてこの説が浮上してきたとされ、怨恨による本能寺の変の流れはドラマや映画のモチーフにもなっています。
豊臣秀吉が裏で操っていた説
本能寺の変後、天下をとったのは豊臣秀吉です。
本能寺の変を知った豊富秀吉は本能寺の変から2日後には毛利氏と和議を結び、11日後には明智光秀を討ったことからあまりにも展開がスムーズで実は本能寺の変が起こることを事前に知っていたのではないか?とまで言われています。
何が真実かは謎のまま
結局諸説があるということだけで結論は今も謎のままです。
歴史の教科書もそうですが、私たちの時当たり前だった1192年鎌倉幕府も今では違うとされていますし、坂本龍馬も一時期は削除候補に上がっていたというから驚きです。
私たちの今生きているこの時代も500年後ぐらいにはどういう歴史として語られるのだろうと考えると少しワクワクしてきます。
今回は当学習塾の所在が元本能寺町であるということから本能寺について書いてみました。
色々調べてみると面白いですね。
以上!京都市中京区のアイデア数理塾 油谷拓哉(ゆたに たくや)がお届けいたしました!
算数好きあつまれ〜!